平成23年元旦修正会の御挨拶
1 もう平成23年元旦

 あけましておめでとうございます。昨年はお世話になりました。今年も引き続きお願いします。

 昭和64年1月7日が崩御のとき。そこから平成がはじまり、すでに23年です。昭和でいうと86年ですか。

2 命あって新年を迎えられたことに、感謝

  お釈迦さまの言葉から

 人の生を受けるは難く やがて死すべき身の

  いま 生命あるは 尊し

3 門松や松竹梅の意味

 四季に色を変えない松の長寿にあやかる意味

 竹も四季に色を変えない、また真っ直ぐなもの

  また雪にも折れないところから節操堅固

 梅は実がたくさんなることから子孫繁栄の意味

4 鏡餅 かがみもち

 丸くて福徳円満 上のミカンは橙だいだい

5 お正月 元旦 修正会の意味

 身も心も行いも正しくする月の意味

 元旦は一年で一番初めの日の意味 糸満旦男先生

 修正会 過去を反省し 正しい行いを修める意味

 過去の自分を反省して新しい自分に生まれ変わる

 新しい希望や理想を抱いて 船出をする

6 うさぎ年 飛びはねる飛躍の年に

7 沖縄山 城間院 長谷寺は 5回目のお正月

 昨年は 潮平三十三観音霊場がスタート

 その意味は



 今年は 沖縄県内三十三観音霊場の第一歩へ

 糸満で フードバンクの 発足の年に

 平和と繁栄を願って 梵鐘の作成と鐘樓堂建立へ



 三十三観音 おそうじ奉仕 布施行 大募集中

  沖縄一の 清掃の行き届いた お寺に 

  また 誰にでも 開かれた お寺に

  常に 多くの方々が 集まっている お寺に

  そんなお寺をめざします  

  朝に晩に 皆さんの幸福を祈願しています 合掌
更新日:05/14
沖縄だより5 2010年秋
沖縄の興南高校が甲子園夏の大会でも優勝しました。春夏連覇です。夏の大会の真紅の優勝旗を初めて沖縄にもたらしました。沖縄中が沸きあがったのは言うまでもありません。高校野球だけではないぞ。学力テストの成績も、進学や就職も、それに島の産業も全国一を目指せば何とかなるんだ。そんな確信を与えた興南高校の連覇です。

甲子園が終わって八月二十二日が迎え盆(ウンケー)、そして二十六日が送り盆(ウークイ)でした。何で?とお思いでしょう。沖縄は「旧暦社会」と言って、八月二十二日が旧暦の七月十三日に当たったからです。本土では七月や八月の十三日に迎え盆をしますが、沖縄のお盆はいまだに旧暦を通しています。
中秋の名月は新暦の十月二十二日になりました。沖縄の手帳には新暦と旧暦が書かれています。旧暦は現実の月の満ち欠けにぴったりです。なんと味わい深いのでしょうか。お正月は新暦、旧暦ともお祝いします。子供のお年玉は二回もらえるのかと聞いてみました。残念、こちらはどちらか一回だけだそうです。種まきや収穫の農作業にも、また漁業にも旧暦が一番ぴったりのようです。

二百十日などの呼び名も旧暦を基準にしています。芭蕉の「奥の細道」も旧暦で出発しています。皆さんも是非旧暦を勉強してみてください。
更新日:08/16
沖縄だより4 2010年夏
半年前の四月三日、沖縄の興南高校が甲子園の選抜高校野球大会で全国制覇しました。
決勝戦の日に、ここ沖縄の長谷寺では行事がちょうど重なりましたが、野球観戦を優先させて、優勝万歳をしてから、行事をはじめました。

ところで、皆さんは今回を入れて過去十一年間に沖縄が春の選抜で三回の全国制覇をしていることをご存じでしょうか。一九九九年と二〇〇八年の沖縄尚学高校に続く今回の三度目の栄冠です。こんな県は他の都道府県には一つとしてないはずです。

いやいや、読者の皆さんは地元の高校を応援したはずですから、不快な思いをさせてしまったことをお許しください。ですが、米軍基地の問題など、不当なイメージの多い沖縄で、この三度の優勝ですから、やればできる、努力すればできると県民にも、また全国の皆さんにも勇気と希望を与えたのではないでしょうか。まあまあ自慢話も許してください。

今年の九月末で移住して満四年が過ぎ、五年目に入ります。境内に造っていたミニ三十三観音霊場も完成しました。高低差がある所を手すりを伝って歩きますからリハビリにも最適と、地元の老若男女の皆さんにも喜んでお参りしていただいています。
更新日:07/27
2010/5/13 仏教タイムス特別寄稿 住職 岡田弘隆
熱い普天間基地移設の県民大会
4月25日、沖縄の読谷村で普天間基地の県外・国外移設を求める大規模な県民大会が開かれ、9万人が集まり、お坊さんも参加しました。普天間問題でこれだけの人数が集まったのは沖縄でも初めてです。午後3時の開会で5時過ぎには終わりましたが、バスや自家用車で駆けつけている人々が、会場に着けないほどでした。
東京から沖縄県糸満市に移住し、早いもので3年7ヵ月になりました。今年になって、新聞やテレビで普天間と沖縄を報道しない日はないほどになっています。昨年の衆議院選挙で色々な意味を込めて、国民が民主党を選択しました。自民党政治の行き詰まりを民主党に賭けたと言ってもいいでしょう。それがです。
普天間基地のことで、「最低でも県外」と発言していた鳩山さんが、どうしたことか、辺野古陸上案や勝連沖の埋立案や徳之島分散案になりそうなのです。鳩山さんが5月末決着というので、それを阻止するための時機に、沖縄では自民党から共産党までのすべての政党が、またすべての市町村長らが、はじめて真に党派を超えて一致して「普天間基地の移転先は県外または国外を」と今回の県民大会を開いたのです。大会の共同代表は自民党系の翁長那覇市長と、自民党に反対する県会議長らです。
会場には、市町村の旗があり、そのほか労働界、財界も市民団体、婦人団体、PTAや子ども会、青年会議所も、それに仏教関係も挙げて参加しました。これまで辺野古移設に賛成してきた仲井真知事も参加し、目の前の人数に驚いて政府に公約の実行をと叫んだほどでした。
一昨年、教科書から「日本軍の関与によって」集団自決(強制集団死)が起こったとの文章が消された時、県民大会には11万人が集まりました。この教科書問題でも鳩山政権の文部行政は前政権と同様の態度で変わっていません。基本的に前政権の政策を変えられない政権だということなのでしょうか。
今回の県民大会では、仕事や介護などで参加できない人は、黄色の目印をつけようと提案され、町中に、畑に、イエローの旗やハンカチが中央への反乱として沖縄中にはためきました。
沖縄は、いま日米安保の矛盾がマグマとして噴出しているという感じです。この沖縄から日本が変わるでしょう。なぜなら世界的な米軍再編が沖縄で阻止されている状態が続いているからです。移転先に本土の候補地が挙げられると、その地でも反対運動が起こります。政府は日米同盟の再検討とか、米軍の抑止力の再吟味などの課題に全く手を付けずにいますが、再検討が真剣に求められている時機なのです。
それは米国の力が急落している現実があるからです。ベルリンの壁が崩れ、ソ連邦が崩壊して、今世紀初頭には米国による世界の一極支配が実現したように見えました。しかし、いまや中国、インド、ブラジル、ロシアなどが成長して、G8がG20と言わなければ世界の相談ができない構造変化を起こしています。米国一極支配は過去の世界になっています。それなのに自民党も民主党もその極端な変化を読めないでいます。東アジア共同体構想を唱えてみたものの、鳩山首相の頭は、古巣の自民党時代と変わっていないのです。私は、こちらに来てお話をする機会があると、「20年後には米軍は沖縄から撤退していますよ」と話しています。「20年かからないかもしれませんね」とも。米軍関係の仕事が多い方は「良い話を聞きました。軍関係の仕事を減らします」と言います。
ベルリンの壁は壊れないと信じられていました。ソ連邦も分裂するとは信じられませんでした。そういう変化は確実に進展しているのに、見えません。突然やってきたようで、変化の兆候は見えていたはずなのです。それがここ数年の米国の力の凋落で、これから加速します。
米軍基地がないと沖縄の経済はやっていけないのではと言う本土の人がいます。しかし基地経済への依存度は5%程度に落ちています。しかも返還された米軍基地の実例が物語っています。那覇の新都心では経済効果で14倍、北谷町の美浜地区では経済効果で174倍にも発展しています。普天間は市街地ですから、発展も確実に予測できます。
結論として、普天間基地の沖縄県内への移設は不可能となりました。地元の受け入れのないところにできるわけがありません。その民意を示した県民大会でした。さあ鳩山さんはどうするのでしょうか。世界一危険な普天間基地は、閉鎖以外にないと思われますが。合掌。(真言宗豊山派僧侶・弁護士)
更新日:02/28
沖縄だより3 2010年春
昨年十二月十日に得度式を行い、沖縄から男女二人のお坊さんが誕生しました。そして四十四名の方々が正式にご本尊とご縁を結び、豊山派の信者となりました。
お寺では坐禅会やお経の勉強会を開催しています。それが終わると、ユンタクというおしゃべり会になります。
さて、六月二十三日は沖縄戦終結を記念する県慰霊の日。昼間は摩文仁で県主催の追悼式があり、各地でも犠牲者を悼む行事があります。

そこで、長谷寺では一昨年から当日の夜に、追悼法要と弦楽四重奏などの追悼コンサートをやってきました。その席で沖縄戦の体験者にお話をいただきます。

昨年は渡嘉敷島集団自決の生き証人、吉川嘉勝さんに話をしてもらいました。吉川さんが七歳のときの体験です。日本軍によって北山に集められ次々に家族単位で自決していくなかで、母が死ぬのはいつでもできるからと叫んで、その場から逃げだして助かった話です。吉川先生は内地の各地でも証言の旅を続けておられます。そんな沖縄です。何とか平和の島にしたいものです。
更新日:07/17