|
|
2010/5/13 仏教タイムス特別寄稿 住職 岡田弘隆 |
熱い普天間基地移設の県民大会 |
4月25日、沖縄の読谷村で普天間基地の県外・国外移設を求める大規模な県民大会が開かれ、9万人が集まり、お坊さんも参加しました。普天間問題でこれだけの人数が集まったのは沖縄でも初めてです。午後3時の開会で5時過ぎには終わりましたが、バスや自家用車で駆けつけている人々が、会場に着けないほどでした。 東京から沖縄県糸満市に移住し、早いもので3年7ヵ月になりました。今年になって、新聞やテレビで普天間と沖縄を報道しない日はないほどになっています。昨年の衆議院選挙で色々な意味を込めて、国民が民主党を選択しました。自民党政治の行き詰まりを民主党に賭けたと言ってもいいでしょう。それがです。 普天間基地のことで、「最低でも県外」と発言していた鳩山さんが、どうしたことか、辺野古陸上案や勝連沖の埋立案や徳之島分散案になりそうなのです。鳩山さんが5月末決着というので、それを阻止するための時機に、沖縄では自民党から共産党までのすべての政党が、またすべての市町村長らが、はじめて真に党派を超えて一致して「普天間基地の移転先は県外または国外を」と今回の県民大会を開いたのです。大会の共同代表は自民党系の翁長那覇市長と、自民党に反対する県会議長らです。 会場には、市町村の旗があり、そのほか労働界、財界も市民団体、婦人団体、PTAや子ども会、青年会議所も、それに仏教関係も挙げて参加しました。これまで辺野古移設に賛成してきた仲井真知事も参加し、目の前の人数に驚いて政府に公約の実行をと叫んだほどでした。 一昨年、教科書から「日本軍の関与によって」集団自決(強制集団死)が起こったとの文章が消された時、県民大会には11万人が集まりました。この教科書問題でも鳩山政権の文部行政は前政権と同様の態度で変わっていません。基本的に前政権の政策を変えられない政権だということなのでしょうか。 今回の県民大会では、仕事や介護などで参加できない人は、黄色の目印をつけようと提案され、町中に、畑に、イエローの旗やハンカチが中央への反乱として沖縄中にはためきました。 沖縄は、いま日米安保の矛盾がマグマとして噴出しているという感じです。この沖縄から日本が変わるでしょう。なぜなら世界的な米軍再編が沖縄で阻止されている状態が続いているからです。移転先に本土の候補地が挙げられると、その地でも反対運動が起こります。政府は日米同盟の再検討とか、米軍の抑止力の再吟味などの課題に全く手を付けずにいますが、再検討が真剣に求められている時機なのです。 それは米国の力が急落している現実があるからです。ベルリンの壁が崩れ、ソ連邦が崩壊して、今世紀初頭には米国による世界の一極支配が実現したように見えました。しかし、いまや中国、インド、ブラジル、ロシアなどが成長して、G8がG20と言わなければ世界の相談ができない構造変化を起こしています。米国一極支配は過去の世界になっています。それなのに自民党も民主党もその極端な変化を読めないでいます。東アジア共同体構想を唱えてみたものの、鳩山首相の頭は、古巣の自民党時代と変わっていないのです。私は、こちらに来てお話をする機会があると、「20年後には米軍は沖縄から撤退していますよ」と話しています。「20年かからないかもしれませんね」とも。米軍関係の仕事が多い方は「良い話を聞きました。軍関係の仕事を減らします」と言います。 ベルリンの壁は壊れないと信じられていました。ソ連邦も分裂するとは信じられませんでした。そういう変化は確実に進展しているのに、見えません。突然やってきたようで、変化の兆候は見えていたはずなのです。それがここ数年の米国の力の凋落で、これから加速します。 米軍基地がないと沖縄の経済はやっていけないのではと言う本土の人がいます。しかし基地経済への依存度は5%程度に落ちています。しかも返還された米軍基地の実例が物語っています。那覇の新都心では経済効果で14倍、北谷町の美浜地区では経済効果で174倍にも発展しています。普天間は市街地ですから、発展も確実に予測できます。 結論として、普天間基地の沖縄県内への移設は不可能となりました。地元の受け入れのないところにできるわけがありません。その民意を示した県民大会でした。さあ鳩山さんはどうするのでしょうか。世界一危険な普天間基地は、閉鎖以外にないと思われますが。合掌。(真言宗豊山派僧侶・弁護士) |
|
|
更新日:02/28 |
|
|
沖縄だより3 2010年春 |
|
昨年十二月十日に得度式を行い、沖縄から男女二人のお坊さんが誕生しました。そして四十四名の方々が正式にご本尊とご縁を結び、豊山派の信者となりました。 お寺では坐禅会やお経の勉強会を開催しています。それが終わると、ユンタクというおしゃべり会になります。 さて、六月二十三日は沖縄戦終結を記念する県慰霊の日。昼間は摩文仁で県主催の追悼式があり、各地でも犠牲者を悼む行事があります。
そこで、長谷寺では一昨年から当日の夜に、追悼法要と弦楽四重奏などの追悼コンサートをやってきました。その席で沖縄戦の体験者にお話をいただきます。
昨年は渡嘉敷島集団自決の生き証人、吉川嘉勝さんに話をしてもらいました。吉川さんが七歳のときの体験です。日本軍によって北山に集められ次々に家族単位で自決していくなかで、母が死ぬのはいつでもできるからと叫んで、その場から逃げだして助かった話です。吉川先生は内地の各地でも証言の旅を続けておられます。そんな沖縄です。何とか平和の島にしたいものです。 |
|
|
更新日:07/17 |
|
|
沖縄だより2 2009年冬 |
|
平成十八年十一月の開創法要で始まった沖縄の長谷寺ですが、特に沖縄の最南端の糸満市を選んだのには訳があります。そこは沖縄戦での最大の激戦地で、戦場で倒れた兵士や一般住民犠牲者の特に多い所だったからです。
私の父は、東京都江戸川区の泉福寺の住職でしたが、一兵卒として、沖縄戦増援部隊に編入され、沖縄に向かう途中で船が撃沈され、かろうじて奄美大島に泳ぎ着きました。父は戦地での病気がもとで昭和二十三年に戦病死します。泉福寺も東京大空襲で灰燼に帰し、檀信徒にも戦争の犠牲者が多いのです。そんなことから、これまで私は戦没者と戦災犠牲者のご供養を続けてきましたが、沖縄にお寺を建てるのであれば、沖縄戦での犠牲者のご供養を何をおいても第一にと、場所は糸満を考えたのでした。
父が沖縄にたどり着いていれば、多分戦死していたでしょう。終戦後、父が生きて戻ってきてくれたお陰で生れた私が、沖縄に行くことになったのも、奇しき因縁です。
沖縄に移住してから、私はつとめて戦跡をお参りし、また慰霊追悼を続けながら遺骨収集の話があると、出来るだけ参加しています。最近も那覇市の中心の真嘉比地区での遺骨収集に若手のお坊さんを誘って参加しました。
まだまだ沖縄での遺骨収集は終っていませんし、不発弾の処理も続いているのです。 |
|
|
更新日:06/21 |
|
|
沖縄だより1 2009年秋 |
|
皆さんは沖縄に行ったことがありますか。
亜熱帯の癒しの島。サンゴ礁とリゾートの地。かつての戦争で国内で唯一地上戦の行われた土地。国内の七十五パーセントの米軍基地がある地など、沖縄に抱くイメージはさまざまだと思います。
そんな沖縄に豊山派のお寺があることをご存じですか。それも総本山と同じ名前の「長谷寺」です。
私が平成十八年九月末に沖縄に移住して、早いもので三年が過ぎました。平成十七年の年頭、総本山長谷寺のご本尊さまが、私の夢枕に立たれて「汝は沖縄に行き、私を本尊として長谷寺を創り、彼の地に三十三観音霊場を開きなさい」と告げられました。突然のお告げにしばし呆然。その年の七月から足しげく沖縄に通いまして、地元の城間巌さん夫妻との深いご縁ができ、十八年五月に寺の現在地を城間さんから譲っていただきました。
高台にあり、敷地一千三百坪、建物百八十坪の元の城間邸で、その年の十一月には仮本尊さまの入仏開創法要にこぎ着けました。それが糸満市潮平一番地の「沖縄山城間院長谷寺」です。新寺の建立には長い苦難の歴史が伝えられるのが通常ですが、沖縄の長谷寺は、あっという間にできてしまいました。長谷のご本尊さまの予言が、まさに実現されたのです。
平成二十年一月三十日には、管長猊下、その他七十名もの僧侶をお迎えして、総高四・五メートルのご本尊十一面観音さまの入仏開眼法要を厳修しました。ご本尊は、京都の大仏師、松本明慶師作の仏さまです。 |
|
|
更新日:06/17 |
|
|
沖縄山城間院長谷寺 沖縄に初の真言宗豊山派寺院 |
管長迎え十一面観音開眼 |
沖縄に初めての真言宗豊山派寺院「沖縄山城間院長谷寺(おきなわさん・しろまいん・はせでら)」(岡田弘隆住職)が誕生した。1月30日、鳥居愼譽管長、浅井侃雄宗務総長をはじめとする宗派・本山役職者70人余、御詠歌講有志70人余が参列して本尊十一面観音の入仏開眼法要が盛大に営まれた。これに先立って怨親平等の精神から、沖縄戦犠牲者の万霊慰霊法要も営まれ、兵士や軍属、一般民衆の犠牲者を偲び、平和を祈念した。
沖縄山長谷寺は東京・江戸川区の泉福寺住職で宗派顧問弁護士の岡田氏が3年前に発願。夢告で「汝は沖縄の地に赴き我(総本山長谷寺本尊の十一面観世音菩薩)を本尊として三十三観世音菩薩霊場を開創すべし」との言葉を賜ったという。 また岡田氏の師父が一兵卒として徴兵され、沖縄戦線におくられた。しかし奄美沖を航行中に米軍機に撃沈され、それがもとで戦病死。こうした体験も慰霊のための寺院建立を後押しした。 寺基は糸満市潮平。平和祈念公園がある摩文仁の丘の西側に位置する。所有者の理解も深く、敷地1300坪と伽藍となる邸宅180坪を譲り受けた。本尊十一面観音は仏師、松本明慶師によるもので、光背を含め丈八尺(約5.45メートル)。諸儀式はこの本尊前で行われることになる。 開眼法要では、地元の潮平地区をお練り。本土から渡った150人余の僧俗が練り歩いた。正式な僧衣を初めて見る住民がほとんどで感動したように見入っていた。 法要に入り、鳥居管長や職衆が整然と並び、古式にしたがって本尊十一面観音が開眼された。表白文で鳥居管長は本尊十一面観音の由来を紐解くと共に、「先師が今次大戦にて戦病死なされ、悲母の労苦を目の当たりに成長し、その戦禍の悲惨さを哀れみ、未だ訪れぬ世界平和を希求する精神をも併せて請い願うを大願として決意に到る」と岡田氏の心境を代弁して奉じた。 これに先立ち、摩文仁の平和の礎(いしじ)で沖縄戦犠牲者に対する怨親平等の万霊慰霊法要を執行。鳥居管長を導師に宗派役職らも参列し、平和を祈念した。
開眼法要を終えた岡田住職の話 「松本明慶大仏師の作になる大仏観音様の教えがこの地に広まる機縁となり、また今後の沖縄三十三観音霊場開設の端緒となったものと思っています。法要の最後は管長猊下による『おさずけ法要』が行われ、沖縄の地に豊山派の法統が伝えられた。受者参加者はその後も感激を語り継いでおります」 |
|
|
更新日:03/02 |
|
|